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歴史とは有り難いものです。忘れられている日本の歴史をもう一度考えてみましょう。

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1028年6月 平忠常の乱

刀伊の入寇の7年後の1026年に、とうとう藤原道長が死去。そんな中、関東で反乱が起きました。時代は少しずつ動いていたのです。中心人物となったのは、平忠常(たいらのただつね)将門の親戚筋の子孫だよ。で、この反乱を鎮めに行ったのは源頼信(みなもとのよりのぶ)頼信のおじーちゃんは源経基で、藤原純友の反乱を鎮めた人。

源頼信が出動したとたん、忠常は速攻降伏しちゃいました。この降伏により関東方面で平氏はちょっと弱くなり、代わりに源氏が強くなります。また京都では強盗・殺人などが相次いで起こるように。乱闘は日常茶飯事。

朝廷はこれを鎮める術を持っておらず、武力をお仕事にしている人達に頼りまくりました。それが「武士」です。ここに「武士」という勢力が出てくるのです。


道長の息子 焦る藤原頼道

1036年に後一条天皇が26歳の若さで死んでしまいました。皇太子である弟が69代後朱雀天皇に。皇太子には道長の娘嬉子が産んだ親仁親王がなり、頼道は関白に。藤原氏はというと、道長が天皇家を身内でがっちりガードしてくれたんで権力争いがほとんどナシ。

頼道はのーんびりと関白をやっていられました。で、パパリンの道長と同じく阿弥陀を拝むように。ですがここで問題が!頼道には、後朱雀天皇が即位した時点でまだ娘が一人もいなかったのです。道長は優秀な娘を天皇家に送り込むことによって心は満月とまでなったので、頼道焦る焦る。

仕方なく頼道は自分の姪のゲンシを養女にし、後宮に送り込んで中宮にしました。後朱雀天皇はこの時すでに28歳。皇太子時代に嬉子と結婚して子供を産んでたんだけど、嬉子は出産で死んでしまったので、皇后には三条天皇の娘がなっていました。

頼道はこの三条天皇の娘テイシ皇后に対抗して自分の養女をアピールしました。ですがこのゲンシは皇女は産んだんだけど、皇子を産むことはなく24歳の若さで死んでしまったのです。頼道の弟 教通(のりみち)も摂関家を生き残りをかけ必死!長女の生子(セイシ)を後朱雀天皇のもとに送り込んだけど皇子が産まれなかった。

こうなるともう摂関家大パニック。三男の頼宗(よりむね)も自分の娘を送り込み、教通も三女を送り込んだけど誰一人として皇子を産まなかったのです・・・。


1045年 70代 後冷泉天皇

頼道は阿弥陀を拝むために、宇治にあるパパ道長の別荘をお寺に改築。これが「宇治の平等院」で1053年に完成。10円玉に描かれてるお寺だよ。地方では刀伊の入寇や平忠常の乱によって武士が反乱を起こしたりと、不満は表面化してきてるというのに、都ではそれに気がつかず豪華な寺を建てたりしてました。

天皇はというと、後朱雀天皇は病気になり息子に譲りました。これが1045年 70代 後冷泉(ごれいぜい)天皇一生懸命娘を送り込んでいた摂関家藤原氏。ですが皇子を誰も産むことができず、これにより栄華を極めた藤原氏は没落への道を歩むように。そして時代の流れは「武士」へと代わっていくことになるのです。


1051年 前九年の役

頼道&後冷泉天皇コンビの時、またも反乱が。今度は東北地方の安陪頼良(あべのよりよし)今度もまた源氏の源頼義(みなもとのよりよし)が出動。ちなみにこの2人字は違うが同じ「よりよし」が、この時一条天皇の奥さんだった「彰子」が病気になりました。

この病気を治すために「大赦(たいしゃ)」という命令が出されました。大赦は、お偉いさんが願い事したりイイコトがあったりすると、在任の罪を赦(ゆる)してあげますよーというもの。反乱を起こした安陪頼良は、「せっかく大赦が出たんだから反乱止めちゃお」と、向ってきた源頼義に「もう反乱やめます。意志を見せるためにボクの名前を頼良から頼時(よりとき)に変えるから許してね」と名前を変えました。

頼時が降伏して4年くらいは穏やかに過ごしてたんだけど、ここで頼時の息子の安陪貞任(さだとう)が事件を起こしてしまう。源頼義の部下が強盗に襲われて、その主犯が頼時の息子貞任だっつーことに。怒った源頼義は、頼時に「貞任を差し出せ!」と言って来ました。が、この犯人は貞任という証拠がなく濡れ衣の可能性大。

頼時も「はっきりとした証拠がないのに息子を差し出すわけにはいかん!」と反抗。ここで源頼義と安陪頼時の間はまたも険悪な雰囲気に。ところが険悪な雰囲気の最中に、安陪頼時が病死。今度は当事者である安陪貞任がこのケンカを引き継ぐことに。これじゃいつまでたっても埒があかないと、源頼義は、同じ東北地方のもう一人の実力者である「清原氏」に助っ人を頼みました。

清原武則は、東北地方の西の方を治めていた人です。清原氏は最初はイヤがってたんだけど、源頼義は何度も何度もお願いして、清原氏はとうとうOKしました。源頼義に強い味方が出来ました。そして清原氏が助っ人になってくれたおかげで、頼義は勝利。

安陪貞任は打ち首となり、安陪氏は滅びてしまいました。この安陪氏の反乱から滅亡までを「前九年の役」と言います。この後、東北地方全体を清原氏が治めることになり、源氏の名前が世の中に広まるようになります。


満月が欠けてきた!藤原氏衰退へ・・・ 1068年 71代 後三条天皇

藤原頼道はというと、娘を後冷泉天皇に送り込んだものの、子供が生まれない。阿弥陀を拝むことと、娘のコトばっか気にかけて政治は乱れまくってました。後冷泉にも摂関家は娘を送り込んだけど、とうとう子供が生まれないまま後冷泉天皇が死んでしまったのです。


1068年 71代後三条天皇が即位

後三条天皇は、後朱雀天皇の第二皇子。生母が藤原氏出身ではないので、前々から頼道からイジメられてました。後三条天皇が即位した時、頼道は76歳。「天皇のおじーちゃん」になれないまま関白の座を息子教通に譲ることになったのです。後三条天皇はというと、藤原氏と縁がないってことで皇太子時代さんざん頼道に苛め抜かれていたため、ずーっと藤原氏を恨んでて、天皇になったとたん藤原氏潰しに全力投球!

まず後三条天皇は「延久の荘園整理令」を出すことに。藤原氏がえらそーに幅を利かせてたのも「荘園」がいっぱいあって金持ちだったから。この荘園を整理して取り上げ「天皇家」の物にするという法律を出したのです。さらに前九年の役で大活躍した「源氏」を藤原氏の代わりに抜擢。バンバン源氏を出世させました。

これにより、藤原氏はどんどん衰退していきました。が、後三条天皇のできることはココマデ。


1072年 72代 白河天皇 

後三条は、皇太子に藤原系の皇子である貞仁親王を指名するしかなかった。なぜかというと、この頃藤原系の嫁をもらってない天皇はおらず、後三条ももちろん藤原系の娘をお嫁さんにもらってて男の子を産んでた。それが貞仁親王。当時20歳。

後三条天皇には他にもご贔屓の「源氏」系の実仁親王もいたので、ホントはそっちを皇太子にしたかったんだけど、まだ2歳。いくら藤原氏の力が弱まったといえ、20歳の皇子と2歳の皇子を比べ、2歳の実仁親王を皇太子にしちゃったらさすがに大ブーイングが起きるだろうってことで、仕方なく貞人親王が天皇になったら、必ず実仁親王を皇太子にするように!という条件を出して

1072年に 72代 白河天皇が即位。皇太子には約束どおり実仁親王がなりました。が、翌年後三条天皇が40歳の若さで死去白河天皇はうるさいオヤジがいなくなってくれて超ラッキーさらに皇太子である実仁親王も病気で死んじゃった。後三条天皇は遺言で、「もし実仁親王が死んだら弟の輔仁を皇太子に」と残していました。後三条天皇は藤原氏が大嫌いだったので、源氏の血を引く方を天皇家として存続させようとしてたのです。

ところが白河天皇は、「愛情を全然注いでくれなった父・後三条の言うことなんか誰が聞くか!」と、その遺言を無視。自分の息子を皇太子にしてしまったのです。


1086年  73代 堀河天皇  白河上皇の院政スタート

白河天皇は、自分の息子を皇太子にして、9歳の時に天皇を譲りました。これが73代 堀河天皇白河は上皇となり「院政」をスタートさせるのです。「院」というのは、モト天皇が住む場所。上皇となって「院」で政治をするから「院政」と言います。白河上皇は藤原氏なので藤原氏返り咲きか?と思いきや、藤原氏は「荘園整理令」と「源氏の出世」のおかげで立ち直れないくらいぼろぼろに。

もう藤原氏摂関政治を再開できるほどの力が残ってなかった。あれほど栄華を極めた藤原氏の摂関政治は頼道・教通の代であっさりと終わってしまいました。かわりに「天皇のおじーちゃん」から「モト天皇・天皇の父あるいはじーちゃん」という存在が権力を握るようになる。「院政」の始まりです。


1083年 後三年の役

前九年の役で、源氏はメキメキと頭角を現してきていました。そんな中、助っ人として活躍してくれた「清原家」が内輪モメを起こしてしまう。清原家には長男である真衡(さねひら)、次男の清衡(きよひら)三男の家衡(いえひら)という3兄弟がいました。

長男・真衡(さねひら)は、この家の跡取り息子

次男・清衡(きよひら)は愛人が連れてきた息子

三男・家衡(いえひら)は愛人との間にできた子供

つまり長男と次男は血のつながりが全くない。で、この愛人はというと前九年の役で滅ぼされた安陪頼時の娘。次男・三男は敵であった安陪氏の血を引いているのでした。長男からみれば、安陪氏の血を引く兄弟がいるってのがおもしろくなく、正統な清原家の血筋である長男VS次男・三男で泥沼のケンカが始まるのです。が1対2で分が悪く、長男は源氏に助けを求めました。

早速源氏は、源頼義の息子義家(八幡太郎と呼ばれてます)を向かわせ長男を助けに行くんだけど、長男が病気で死んじゃったのです。仕方ないので義家は、次男と三男に長男の土地を二等分に分けるようにアドバイス。ところが三男がこの処置に不満を言い出して次男にケンカを吹っかけたのです。

というのも、三男は「オレの父親が清原氏だぜ!オレは清原の血が半分入ってるんだぜ!次男は清原氏の血が入ってないのに(次男の父方は藤原系)なんできっちり二等分なんだ?」と言い出したのです。源義家は、せっかく平等に分けて仲良くしろよという処置をしたのにけしからん!と、次男の味方をし三男をやっつけちゃいました。

残った次男の清衡は、「清原」姓を捨て、父方の「藤原」姓を名乗ることに。これが「奥州藤原氏」となります。


源氏人気急上昇→急下降

源義家は、この戦いで活躍した武士にご褒美をあげてくれと白河上皇にお願い。が、白河上皇は「おまえらが勝手にやり始めた戦いだろ?」と、褒美を断ったのです。仕方ないので源義家は、自分のポケットマネーで武士に褒美を与えました。これに武士らは超感動

「源氏」が俺ら武士の親分になってくれればいいのに・・・と、源氏人気に火がついたのです。そして、源氏が地方武士の親分的存在になってきたのです。それがおもしろくないのは白河上皇。人気急上昇の源氏の力を抑えるために、義家に新しく土地を開墾するのを禁止。

でも、イジめてばっかいて反乱起こされても困るしなーと、白河上皇は義家を都に呼びよせ、自分のボディガードをやらせました。義家はかなり不満だったけど、我慢してました。ところが義家の息子の義親が、「なんでオレらがこんなに意地悪されなきゃなんねーんだ?」と、九州の対馬で反乱を起こしてしまい失敗隠岐島へ島流しされてしまったのです。

義家はこれには頭を痛めたが、どーにもなんないにうちに義家死去。そしたら今度は、義親が隠岐島は抜け出して、出雲(島根県)でまたも反乱。義家が生きてたときは島流しで許してやった白河上皇も、今回は容赦しないぜ!と「源氏」が反乱を起こしたなら「平氏」をってことで、源義親討伐に平正盛を行かせました。

で、平正盛が向った13日後に義親は殺されてしまいました。この素早い対応によって、平正盛を気に入った白河上皇。源氏の代わりに平氏の名前が売れ始めたのです。平正盛はあの平清盛の父デス。(一応)←これは後で詳しく書いてあるよ

源氏VS平氏がごちゃごちゃとやってる間に、堀河天皇が死去

白河上皇が院政で頑張られてたおかげで、ホント一切口出しできずに学問とか和歌とかばーっかやってたまま死んでしまいました。堀河天皇の息子が 1107年に74代 鳥羽天皇になりました。が、実権は相変わらず白河上皇が握ったままでした。


日本史上NO1のエロおやじ 白河上皇 

白河上皇は死ぬまでの43年間「院政」を続けて、この間ずーっと独裁者として政治を仕切ってました。「私の思い通りにならないのは加茂川の水とサイコロの目と山法師の3つだけ」
というセリフを残してます。

①加茂川の水 洪水はどーにもならん!

②サイコロの目 ギャンブルはどーにもならん!

③山法師 武装した坊さんのこと。こいつらが暴れだしたら手がつけられん!

また、女性関係もすごい!一生の間に、どんだけの女性と関係したかは不明。中には「平家物語」で有名な祇園女御(ぎおんのにょうご)などがいますが、名前さえわかんない女性がほとんど。またロリコンでもありました(^^;) 

さきほど平清盛の父は平正盛と書きましたが、実は平清盛は白河上皇の隠し子!というのも、祇園女御と付き合ってた白河上皇は、なんと祇園女御の妹にも手を出して、妹を妊娠させてしまいました。さすがに、祇園女御に怒られるーと思った白河上皇は、祇園女御の妹が産んだ子供を側近の平正盛の息子として預けたのです。というわけで、平清盛は異例のスピード出世をするワケです。


1123年 不倫から生まれた 75代 崇徳天皇

白河上皇の女好きは有名ですが、10代はじめの女性というより少女にも手を出してました。これが藤原璋子(しょうし)です。藤原璋子が17歳になった時、白河上皇はなんと孫である鳥羽天皇(当時15歳)と璋子を結婚させちゃいました。でも、白河上皇と璋子の関係はずーっと続いてました。つまり、白河上皇は孫のお嫁さんと不倫(?)をしてたワケです。しかもケッコー堂々と。

1119年に、璋子が男子を出産。これが顕仁親王。が、この顕仁親王はなんと白河上皇の息子なんですねー。といっても、DNA鑑定とかもないし確実な証拠はないのであくまでも噂なんですが、鳥羽天皇は「崇徳はオレの子じゃない」とハッキリと言っていたそうです。

で、白河上皇と璋子の息子の顕仁親王が5歳になった時、白河上皇は鳥羽天皇に「もうお前いいだろ?天皇譲ってやってくれや」と顕仁親王を天皇にしちゃいました。鳥羽は権力を全く持ってないため言うことを聞くしかなかったのです。

これが1123年 75代 崇徳(すとく)天皇まだ5歳なので、もちろん白河上皇が院政で仕切ってました。上皇になった鳥羽ですが、上皇が何人もいる場合は院政を仕切ってる人が一番偉くて「治天(ちてん)の君」と呼ばれてた。鳥羽は上皇になっても、全然権力なし。

鳥羽上皇からしてみれば、じーさんの愛人を勝手にお嫁さんに押し付けられて、自分の子供じゃないかもしれない崇徳に天皇を譲らされるし、いつまでたっても院政を白河上皇が仕切ってて全然実権握れないしー・・・と、くそおもしろくないコトばかり。

早く白河死んでくれないかな・・・と待ち続けました。が!!そんな悩める鳥羽上皇にもやっとチャンスが!とうとうワガママ白河上皇が77歳で死去。この時崇徳天皇はまだ11歳。やっとこさ鳥羽上皇の時代が始まるのでありました。


1135年 平清盛 異例のスピード出世

エロオヤジ白河上皇の子供をもらった平忠盛清盛を大事大事に育てました。1129年12歳になった清盛は元服と同時に「従五位」という位をもらいました。さらに1135年に従四位に昇進。この時は忠盛が海賊をやっつけたんだけど、その時のご褒美を「オレの息子にあげてくれ」とオネガイしたから。

翌年忠盛はまたも活躍してご褒美チャンスがあったんだけど、この時も「息子に・・・」と言ったのであります。そして1137年には肥後守兼任という今で言うと熊本県知事みたいな役職に。さらに1146年には安芸守(広島県知事)になりました。この時広島に行かされたことから、平氏の厳島神社ができることになるのです。

忠盛は白河から預った息子をどんどん出世させてあげることによって、自分も出世していくので超ラッキーだったのであります。またあまりにも清盛がスピード出世したため妬むものが続出すると鳥羽上皇が「清盛は身分が卑しい者ではないのだよ・・」とたしなめたそうです。


白河が死んで鳥羽上皇大喜び!

うるさいのがいなくなってせいせいした鳥羽上皇。まずは可愛くて若いお嫁さん(得子)をゲット!璋子を遠ざけちゃいました。白河上皇が生きてるときは、璋子のご機嫌をとってたので他の女性にちょっかいをかけれなかったんですねー。で、可愛い得子が早速男の子(体仁天皇)を産んでくれたので、鳥羽大喜び!

鳥羽上皇は崇徳天皇をさっさと天皇の座から引き摺り下ろして、自分の本当の(?)息子を天皇にしたかった。そうはいかないのが崇徳天皇。この頃は崇徳天皇も結婚してて息子(重仁親王)がいた。

崇徳天皇だって自分の息子を次の天皇にしたかった。だけど鳥羽上皇が自分が白河に言われたのと同じように「おまえもういいだろ?天皇譲ってやってくれや」と譲位するように言って来たのです。可愛がってくれた白河上皇は死んじゃって、いまは鳥羽上皇の時代だったので逆らうことができずにいました。だけどまだ璋子が生きてたので、おもいっきり譲ってとりあえず体仁親王を崇徳天皇の養子にするってコトで同意。


1141年 76代近衛天皇 祟徳騙される!

で、1141年に2歳の76代 近衛天皇が即位。が、その近衛天皇就任&養子にしますよーってゆー正式イベントの時の大事な命令書になんと「近衛天皇は崇徳の弟でーす」と書いてあった。養子にするつもりなのに弟!?と、崇徳天皇は怒る怒る。というのも、院政の定義は引退した天皇・天皇の父・天皇のじーちゃんが院政をやるってもの。

が、「弟」では、崇徳天皇は「天皇の兄」になるので院政の定義から外れちゃってる。とゆーことは、もし鳥羽上皇が死んだ場合、崇徳天皇は「天皇の兄」なので院政をできないんですねー。要は鳥羽上皇は、崇徳天皇が自分の息子じゃないので騙してしまったってこと。

崇徳は超ーーー怒るが、「治天の君」である鳥羽には逆らえずストレス溜まりまくり。そこになんと唯一の味方だった母親の璋子までもが死んでしまい崇徳は絶望的に・・・・。


1155年 77代 後白河天皇 崇徳大ショック

悶々とした日々を送る崇徳上皇。が、ここにきてなんと「弟」の近衛天皇が17歳の若さで死んでしまった!!崇徳は大喜び!これで自分の息子の重仁親王を天皇にして、自分が院政をできる!後は、大嫌いな鳥羽が死んでくれるのを待つだけ・・・うっしっし。

ところがここでとんだ邪魔が入るのです!崇徳の母 璋子にライバル意識バリバリだった近衛の母親が「近衛が死んだのは崇徳が近衛をキライで呪ってたからよ!絶対崇徳の子を皇太子にしないでちょうだい!キー!!」と言って来たのです。

鳥羽はも崇徳の息子に後を譲りたくなかったのでコレ幸いと、近衛が死んだのは崇徳らが呪詛をしたせいだ!と、重仁親王即位を却下しちゃったのです。で、天皇レースから思いっきり外れていた「忘れられていた崇徳の弟」(母親は璋子)を天皇に無理やりしちゃったのです。

これが1155年 77代 後白河天皇近衛天皇より12歳も年上で、どー考えても不自然な順番。さらに最悪なことに皇太子には後白河天皇の息子の守仁親王に決まってしまった。こうなってしまったら崇徳が権力奪回をするのはもう絶望的。

自分のトコに権力を持ってくるには、もう天皇家とケンカするしかないな・・・と考え始めたのです。さらに藤原家でも兄弟げんか! 藤原氏はと言うと、だいぶ勢力は弱まってはいましたが、まだまだ朝廷内では頑張っていました。ここで藤原家でも家督争いが起きていたのです。

父である藤原忠実(ただざね)は、長男の忠通(ただみち)よりも、幼い頃からオリコウさんだった弟の頼長を溺愛していました。父の忠実は一度は長男の忠通に関白の職を譲ったんだけど、「やっぱ関白は弟の頼長にさせてあげたいなぁ」ってことで、長男の忠通に「弟に関白職を譲れ!」と言ってきたのです。

そうはいかん!と拒み続けた忠通は、とうとう1150年に勘当され、無理やり関白職を譲らされた上に、藤原家の相続権までも剥奪されてしまいました。このことにより、藤原家でも長男・忠通VS弟・頼長の戦いが始まっていくのです。


1156年 保元の乱

崇徳は、当時ケンカを商売としていた「武士」を味方につけることに。つまりクーデターを目指して着々と準備。そうこうしてるうちに、ラッキーなことに鳥羽が死んでしまった。崇徳大チャーンス!!早速崇徳は左大臣になった藤原頼長に相談

「オレさぁ、鳥羽がうるさいから天皇の座を近衛に譲ってやったじゃん?近衛が死んだらフツー俺の息子を次の天皇にするだろぉ?だけどワケわかんない後白河が出てきちゃってさぁ。あいつナニよ?今までどこにいたのよ?29歳でデビューしやがってよー。まぁうるさいオヤジの鳥羽も死んだから今度こそオレが権力奪取してもいいよな?な?」とぶっちゃけ話をしました。というわけで、崇徳は後白河天皇にケンカをふっかけたのです。

この時ケンカに参加したのは主に「源氏」と「平氏」崇徳チームには、源為義・源為朝・平忠正(清盛の叔父さん)藤原頼長(弟)。ここに出てくる「源氏」は、白河上皇が引き立てた源義家の孫とひ孫後白河チームには、藤原忠通(兄)・源義朝(源頼朝のおとーさん)、平清盛・平重盛(清盛の長男)

で、崇徳側の源為朝が「夜中のうちに後白河んとこに行って奇襲してやっつけちゃおう!」と提案。が、おエライさんの藤原頼長が「皇位をかけた戦いは白昼堂々とやるもんだぁ!」と却下。そしたらなんと、後白河天皇側が7月11日早朝、崇徳の家に不意打ち!準備の整ってない崇徳側はあれよあれよと3時間ほどでボロ負け。この時、崇徳側が源為朝の提案を受けていれば勝てたのにね。


大魔王・崇徳上皇の呪い

3時間ほどでボロ負けした崇徳チーム。崇徳は香川県讃岐に島流し。為義、忠正ら主要武将は六条河原にて打ち首。為朝は伊豆に島流し。他の武士らも死刑やら何やらでみんな厳重に処罰されました。

讃岐に流された崇徳は、一応反省の日々を送る。で、保元の乱で死んじゃった人を供養するために、3年もかけ一生懸命お経を書いて京都の高野山に奉納してくれと送りました。が、後白河天皇が、「謀反人の書いたお経なんて置けるか!」と突っ返したのです。

反省して書いたお経を突っ返された崇徳はブチ切れた。

「オレは魔王になって天皇家を呪ってやる!天皇家以外の民をのし上がらせるようにしてやる!」といった内容の呪いの手紙を書き続け、ボロ布を身にまとい、髪の毛も伸ばしっぱなしのまま(天狗になったとか)その手紙に血を滴らせ瀬戸の海に沈めたのです。

で、とうとう死んでしまいますが、死んだ時にも怪異が起きたとか色んな伝説が残ってます。ちなみに、崇徳上皇が祭られてるのは京都にある白峰神社ここは「サッカーがうまくなる」っていう利益があるらしい。

崇徳チーム対後白河チームで蹴鞠をやった時に、崇徳が日頃の恨みを込めたシュート(?)を打ち込み、その鞠が岩にのめり込んだらしい。ストレス溜まってたのねー。とまぁ、崇徳は天皇家を呪いに呪って、実際その呪いは実を結ぶわけデス。白河上皇のロリコンのせいで悲劇の天皇となってしまった崇徳天皇

ちなみに崇徳天皇の崇という字は悲劇の死を遂げた天皇に与えられる文字なのです。


源平の物語

保元の乱によって武士の力が台頭してきました。ここらへんから源平の物語がスタートします。源氏・平氏の物語は、平家一門の栄華と滅亡を描いた軍記物語である「平家物語」、鎌倉の歴史書で頼朝挙兵からを描いた日記「吾妻鏡(あずまかがみ)」、

室町時代前期の8巻からなる軍記物語で義経の生い立ちから悲劇の最期までの人生を描いた「義経記(ぎけいき)」、鎌倉時代の3巻からなる軍記物語「平治物語」などなどに描かれています。この時代の残されている物語は、「物語」のため実際とは違う内容のものもあります。


1159年 平清盛VS源氏

保元の乱に勝った後白河天皇は、息子に譲位して上皇となり院政をスタート。1158年 78代 二条天皇が即位。また、後白河天皇のもとで戦った武士達はご褒美をもらった。特に平清盛はえこひいきなんじゃないか?というくらいご褒美たっくさん。

これにおもしろくないのは同じように主力で戦った源義朝。明らかなご褒美の差に源義朝は不満タラタラ。同じく、保元の乱でご褒美が少なく不満タラタラの武士仲間や公家さんに声をかけいつか何とかしてやろう!と考えるように。対する平清盛は褒美を沢山もらい、さらに後白河上皇に目をかけられるように。


平氏の棟梁 平清盛

白河天皇のご落胤(?)として、合戦経験もないのに出世街道まっしぐらだった清盛。保元の乱のときも、正直源義朝より活躍してませんでした。それでも源義朝よりご褒美をたくさんもらっちゃいました。

清盛は「合戦での命のやりとりは下っ端にやらせりゃいいんだ。オレは平氏の棟梁なんだから、政治なんかをやってくのさ」と言った感じで、権力者との結びつきを固めていました。


源氏の棟梁 源義朝

義朝は源為義の長男で、母は京都の人でしたがなぜか東国で育ちました。大きくなった義朝は、鎌倉に腰をすえて武士たちのボスとなっていきました。この時に、義朝が東国武士達に色々とやってあげたので、のちに頼朝が兵力を集めるときに役立ちました。

31歳になった時に、鳥羽天皇から従五位にしてもらい、ようやく政治の中に入っていけるように。父親の為義はイマイチ政治オンチだったので、源氏の後継ぎである義朝には、源氏一族の期待が集まりまくりました。

そして保元の乱。義朝は後白河天皇につき、平清盛とともに戦ったのですが、褒美は清盛が多い。この不満が義朝の心にくすぶるまくったのです。 


1159年12月 平治の乱

おもしろくない源義朝はとうとう清盛が参詣に行ってる隙を狙ってクーデターを起こしたのです。後白河上皇を拉致し、二条天皇を監禁してしまったのです。そして無理やり褒美の貰いなおし。この知らせを受けた清盛は密かに京都に戻ってきました。

そして義朝の仲間である2人の公家を裏切らせ味方にさせた。で、後白河&二条を無事救出。この時二条天皇は女装させられたそうです。上皇&天皇を取り戻した清盛は、京都のど真ん中で義朝と大喧嘩。

ここでも義朝の仲間である源頼政の裏切りがあり、義朝ボロ負けしてしまったのです。義朝は戦い終わって逃げる途中、お風呂に入ってるとこを部下に殺されてしまいました。義朝38歳でした。

この戦いを「平治の乱」と言います。 頼朝の命の恩人 清盛の義母 池禅尼  平治の乱によって源義朝の後継ぎである長男の義平は都に潜伏したんだけど、捕らえられ斬首。次男の朝長も死に、三男の頼朝は逃走中に捕まって、平清盛の前に連れて来られた。ここで出てくるのが清盛の母 池弾尼であります。

池ノ弾尼は忠盛の後妻となり家盛・頼盛と2人の男の子を産んでいました。ところが長男の家盛が鳥羽上皇と一緒に行った熊野の帰りに病気になって死んじゃったのです。池弾尼の悲しみはすごいものでした。それから10年後・・・。平治の乱で捕らえられた13歳の頼朝を見てビックリ!なんと死んだ家盛とそっくりだったのです。池弾尼は「頼朝はまだ13歳だから殺してしまうのは可哀相。助けてあげて頂戴」と清盛にお願い。もちろん清盛は「ダメだ!源氏の嫡流(家督を継げる本家の血筋)を生かしておくなんてとんでもないことだ!」と却下。

すると池弾尼はなんとハンストをしちゃったのでした。これにはさすがの清盛も「そこまでやるなら・・・」と義母の池弾尼の命がけの願いを聞き入れるのです。そして頼朝は殺されずにすんで伊豆へ流されるのです。ちなみにイトコの木曽義仲ら数名も助けてもらいました。


13歳で流された源氏の嫡流 源頼朝

池禅尼(いけのぜんに)のおかげで伊豆に流された13歳の頼朝。ちなみに頼朝の幼名は「鬼武者」です。生活援助は乳母であった比企尼(ひきのあま)が埼玉から送っていたり、頼朝の母の実家である名古屋の熱田大宮司からもありました。日常生活は比企尼の娘婿である安達盛長が面倒をみて、従者として佐々木定綱ら佐々木兄弟が従っていました。

伊豆で頼朝の監視をしてたのは、北条時政。この頃は、弱小の勢力である平氏系の豪族でした。流人生活をしてたといっても、源氏の正統な血筋である頼朝は結構自由な生活でした。近所の豪族らと一緒に狩を楽しんだりと、楽しい生活を送っていたのです。


ミスコン第一位!義経の母 常盤御前 

常盤御前は庶民の娘でした。が!ずば抜けた美貌の持ち主だったのです。その美貌を武器に九条院で雑仕女となりました。近衛天皇の中宮が雑仕女を募集したことから常盤の波乱の人生が始まります。九条院の雑仕女になれる条件はというと、まず美女が1000人集められます。

オーディションでさらに100人に絞られ、そしてさらに10人に絞られ、最後に一人が選ばれる。まさに1000人の美女から選ばれた美人コンテストの第一位に輝いたのです。しかもその栄光をなんと13歳でもぎとっちゃったのです。そしてその美貌は九条院を出入りする男の人達の噂の的でした。13歳の美少女を射止めたのは源義朝。

常盤は都の貴公子ではなく成長株の武士を選んだのでした。ちなみに常盤は妾であります。義朝の本妻は熱田神宮の官司藤原季範(ふじわらすえのり)の娘。義朝は妻・妾が何人もいましたが、本妻が一番身分が高かったのです。ここから生まれたのが源頼朝です。

ちなみに九条院の雑仕女が産んだ息子なんて、箸にも棒にもひっかかんないレベルでした。やがて常盤は15歳で長男 今若を出産。続いて次男乙若 三男牛若と三人の子持ちに。ここで常盤にとって大誤算が!牛若を産んですぐの1159年に平治の乱が起きるのです。とたんに「戦争犯罪人」の家族となった常盤たち。せっかく類まれない美貌で有力な男をゲットしたのに、ゲットしたのはとんでもない爆弾男だったのです。


常盤御前の都落ち

戦争犯罪人の妻となっていた常盤は、平氏の追っ手から逃れるためにわずかな主従を連れ、逃げることに。赤ん坊の牛若を胸に抱き今若・乙若の手を引いて雪の中逃避行が始まるのです。平氏の追撃は常盤の母である関屋のもとへ。

それを風の便りにきいた常盤は子供をつれて六波羅へ自首するのです。清盛の前につれてこられた常盤。が、清盛は常盤を見てビックリ!あまりにも美しいのです。そんな美しい常盤が「私を殺してから子供を殺して!」なんて言うもんだから清盛は「こんな美人殺すのは勿体ない」と、常盤を愛人にして子供を助けてあげるのです。

ちなみに常盤は清盛との間に女の子を出産しました。その娘は、のちに左大臣藤原兼政の奥さんになります。その後常盤は清盛の命令で藤原長成のとこに嫁がされます。


常盤御前はどうなった?

常盤は清盛の愛人となっていましたが、清盛の正妻・時子が「源氏のボスの奥さんを愛人にするなんて!」とカンカン。清盛は時子に怒られ、渋々常盤と別れることに。そして常盤は一条大蔵卿(おおくらきょう)・藤原長成(ふじわらのながなり)のもとに嫁がされました。

ちなみに常盤は源義朝との間に3人の息子(1人は義経)そして清盛との間に女の子を1人出産。この女の子は「廊の方(ろうのかた)」と呼ばれ、のちの右大臣・藤原兼雅に嫁ぎます。そして藤原長成との間にも能成(よしなり)という男の子を出産。

義経との年齢差は4歳。常盤は4年の間に、3人も違う男の子供を産んだのです。ちなみに能成は、けっこう出世しました。


牛若丸(義経)はどうなった?

常盤が捕らえられた時、まだ2歳だった義経は、清盛→藤原長成のとこへいる母・常盤と一緒にいました。そして7歳になった春に、京都の鞍馬寺に行かされました。この時、遮那王(しゃなおう)という名前になってます。

父の菩提を弔いながら仏教や儒教の学問をやる毎日でした。が、11歳の時に自分の系図を見て、自分が源氏の嫡流であることを知ったのです。そしてこの頃から「父の遺志を継いで、平氏を倒したい」と思うように。それからというもの、義経は仏教の本じゃなく軍書を読むように。さらに夜中には山の中で武芸の稽古をするように。鞍馬山の天狗が教えてくれたという伝説はこの頃のことです。


平氏意外は人間じゃ無いよ!?

平時の乱で落ちぶれた「源氏」そして天下を取った「平氏」崇徳上皇の呪い通り、これからは「武士の時代」となっていくわけです。平清盛はガンガン出世していきました。「太政大臣」という役職もゲット。この役職に武士がつくのは初めて。

二条天皇はというと、後白河の院政に対する新政をやろうとするが病気になり23歳で死去。二条天皇の2歳の息子が 1165年 79代 六条天皇に。が、後白河上皇は六条天皇が5歳の時、自分の息子を天皇に。これが8歳の80代 高倉天皇 高倉天皇は平清盛の妻・時子の妹の子。ちなみに六条天皇は、13歳で死去。

わけわからんうちに天皇にされ、わけわからんうちに天皇を辞めさせられたお気の毒な幼帝でした。清盛はというと、、この高倉天皇に一番可愛がっていた自分の娘(徳子)を送り込んだ。なーんとなく藤原摂関政治に似てるよね。さらに清盛は要職に自分の一族を要職につかせるなどし始めた。だんだんとおもしろくなくなってきたのが後白河上皇。「俺が出世させてやったのにえばりくさりやがって・・・」と思うようになってきたのです。


平清盛長男 重盛

清盛には息子が何人かいましたが、その中で一番頼りにしていたのが長男重盛。清盛は平氏の棟梁として上り詰めていきましたが、ちょっと優しすぎました。他人がつまらない冗談を言っても愛想笑いしてあげたり、家臣がミスをしてもあまり怒らない。

自分がちょっと早起きしちゃったら、身の回りの世話をする家臣をもうちょっと寝かせてあげよっと♪と、そーっと起きる。などなど、人に好かれ、情の厚いタイプだったのです。身内の人たちが望むままに「いいよ!ワシにまかせろ!」と、言った感じ。そんな父のセーブ役をしていたのが長男の重盛でした。

清盛は重盛を頼り、重盛も父親のために最善のアドバイスをして、平氏一門を繁栄させていったのです。


1174年 義経16歳 金売吉次と出会う 

鞍馬寺で16歳になっていた義経。ある日金売吉次という奥州の金商人と出会いました。金売吉次は伝説的な人物です。そこで吉次に陸奥国の魅力を語られ、義経は興味を覚えて吉次と一緒に行くべく鞍馬寺を脱出したのです。また、この頃平氏は「源氏」の生き残りがなんやかやアンダーグランドで動きだしているのを察知。

源氏の棟梁の息子であった義経が、いつまでも出家しないでいるのを要チェックしていました。そのため、義経は平氏から逃れるために奥州へ行ったとも言われています。奥州へ行く途中で元服し、「源九郎義経(みなもとのくろうよしつね)」と名乗ることに。そして奥州平泉に行き、藤原秀衡(ひでひら)に出会ったのです。


義経 奥州平泉へ

義経は金売吉次とともに奥州へ。この旅の中で、伊勢三郎という盗賊たちが家臣になったと言われています。このあたりは物語的になっており、史実ではないことが多いのですが、旅の途中「金商人がいるぜ!」と、盗賊ネットワークに引っかかり、襲われることがしばしば。そんな何人かの盗賊の中に、のちに義経に付き添って活躍した伊勢三郎などがいたのでした。


武蔵坊弁慶の生い立ち

「吾妻鏡」に「武蔵坊弁慶」という名前は出ており、実在していることは確かですが、その出生や本当に義経の家臣となったのかなど、伝説の部分が多い人物です。以下は伝説としての武蔵坊弁慶のことを紹介させていただきます。

子供が生まれない弁心(べんこころ)は、若一王子社(にゃくいちおうじ)に子供が生まれるよう祈願しました。すると妻が妊娠し、弁心は大喜び!ところが、その子供は3年3ヶ月も母親の胎内に居座り、生まれた時は髪の毛は首まで生えていて歯がしっかり生えていました。そして突然立ち上がり「世の中は明るいのぅ。わははは」と笑ったのです。「これは鬼の子だ!」と恐れた父の弁心は、熊野の山に弁慶を捨ててしまったのです。

ですが、捨てた弁慶が気になった弁心は使いの者に「ちょっと気になるから山に見に行ってくれない?」とお願い。使い者が見に行くと、弁慶は木の実を食べ遊んでいました。そして「おぬしはオレを迎えにきたのか?さっさと連れて行け!」と追いかけてきました。使いの者はめちゃくちゃ恐ろしくなり、そのまま逃げて帰ってきたのです。

同じ頃、五条という大納言が同じく若一王子社に「子供が欲しいー」とお願いしにやってきました。すると夢の中に「山に子供が捨てられている。その子を拾って育てなさい」というお告げがあったのです。五条はさっそく神の思し召しじゃ!と、弁慶を拾い「若一」と名づけて育てました。弁慶が7歳になった時、比叡山延暦寺に修行に行かされました。

そこで弁慶は争いごとばかり。乱暴狼藉だらけだったため、寺から破門されてしまいました。無実の罪で破門されたとも・・・この頃から自分のことを「武蔵坊弁慶」と名乗るように。寺を追い出された弁慶は「日本中をまわって諍い修行するぜ!」と、ケンカに強くなるための修行に出たのです。


武蔵坊弁慶 義経の家臣となる

日本をケンカしまくりながら歩き回った弁慶。どっかに強いヤツはいないのか!?と、ウロウロ。都に入ったころ「夜な夜な鞍馬山に天狗が現れている」というニュースを聞いたのです。これはおもしろい相手じゃ!とケンカしたくてうずうずしていた弁慶は早速夜になるのを待ちました。その時、北野天神の境内で牛若丸(義経)と会ったのです。

お互い、並みならぬ殺気を感じた2人。弁慶が襲いかかろうとすると、牛若丸は宙に飛び上がり、弁慶を幻惑し逃げて行ったのです。それからというもの、牛若丸が気になって仕方ない弁慶。2ヶ月後、とうとう清水寺にて牛若丸を発見!

2人は五条の橋で対決となりました。笛を吹きながらヒラリヒラリと弁慶の攻撃をかわす牛若丸。弁慶は自慢の太刀を振り回すも、とうとう牛若丸を倒すことはできず、とうとう降参。そして弁慶は牛若丸に忠誠を誓うようになったのです。


奥州の覇者 藤原秀衡(ふじわらのひでひら)

藤原秀衡は「後三年の役」により勝者となり、以後奥州の王として君臨する藤原清衡の孫です。藤原清衡は奥州を独立国として強大なものとし、三代目の秀衡の時にはちょっとじゃ揺るがないほどの磐石なものになっていました。

義経がやってきた時、秀衡の心の中は微妙・・・「なんだよ。平家に目をつけられるじゃねーかよ!」「いや、でも平家は強大になりすぎてる。源氏の棟梁の息子である義経に恩を売っといて悪くはないかも」などなど、色々考えていました。とりあえず「ちょっと様子をみよう」ということに。が、一緒にいるにつれ、だんだんと秀衡は義経の資質に惚れこんでいく事に。

秀衡はめちゃくちゃいい馬を与え、馬術も教え込みました。秀衡の息子たちはあまりにも父が義経ばかり可愛がるのでちょっとムっとしてました。こうして義経は、何一つ不自由なく奥州で暮らしていくのでした。


頼朝 子供を殺される

流人として悠々自適の生活を送っていた頼朝。亡き父である義朝や源氏一族のためにお経を読んだりして暮らしていましたが、ここで女性問題が勃発したのです。お相手は伊豆の豪族伊東裕親(すけちか)の三女でした。裕親が京都に行ってる間に頼朝と裕親の娘との間に子供ができちゃったのです。裕親はビックリ!京都から戻ってきたら娘が子供を産んでるわ、相手は頼朝だわで超激怒したのです。

「謀反人の子供」ってコトで平氏からの攻撃を恐れた裕親は、生まれたばかりのその子供をす巻きにし、川に投げて殺してしまったのです。父親として、自分の娘を孕ませ子供まで殺すハメになってしまい、頼朝が許せなかった。頼朝を殺したる!と、命を狙いましたが、裕親の次男である裕清が頼朝を助けました。何とか助かった頼朝ですが、以後自分の監視役である北条時政を頼ることになるのです。

その後の伊東裕親ですが、政子が二番目の子を妊娠中に、頼朝は安産を願って捕まっていた裕親を許そうとしたんだけど、裕親はそれを拒否し自害しました。頼朝はそれを聞くと、「では、代わりに息子の裕清を取り立てよう」ということになったんだけど、裕清もそれを拒否して京都へ旅立ったそうです。


1177年 北条政子と源頼朝 結婚する

北条時政のもとで過ごすようになった頼朝。そんな頼朝を好きになっちゃったのが北条時政の娘政子でした。流人生活を送ってるとはいえ、毛並みの良さは折り紙つき。田舎育ちの政子は、サラブレッドである頼朝に惹かれていったのです。父の時政は、政子をもっとお金持ちと結婚させようとするが、政子は頼朝ラブだったので、抵抗しまくったのです。

パパリン時政激怒!「謀反人の息子と監視役の娘が結婚するなんてダメー!」と政子を無理やり嫁がせようとして、政子を家に閉じ込めてしまいました。パパの決めた相手との結婚前夜になった政子は、激しい大雨の夜中、大好きな頼朝のところへ逃げ帰ってきちゃったのです。ちなみに、政子が結婚させられそうになったのは山木兼隆。これは創作らしいですが・・・。

時政は「そんなに頼朝がいいのかいな」と、とうとうあきらめ2人の結婚を許しました。そしてめでたく1177年に頼朝32歳政子22歳で結婚。二人の間には大姫という女の子が誕生しました。


1177年 鹿ケ谷の陰謀

平氏はだんだんとデカイ顔をしてきて「平氏にあらずんば人にあらず」(平氏じゃなけりゃ人間じゃないよってこと)ほざくヤツまで出てきた。さすがにこの発言を聞いた人たちは怒り、とうとう「平氏やっつけようぜ!!」という人たちが出始めたのです。中心となったのは、後白河法皇の近臣藤原成親(ふじわらのなりちか)や僧の西光や俊寛(しゅんかん)ら。

こうした打倒平氏ムードの中で、藤原成親が出世させてくれと平清盛に言ったんだけど、無視された上に成親が望んだ「左近衛大将」という地位に清盛は自分の一族を入れちゃったのです。藤原成親ら貴族の怒りはパワーアップ。もう平氏でなければ出世できないってくらい平氏の地位はゆるぎないものとなったのです。京都東山「鹿ケ谷」の俊寛の家で、平氏をやっつける秘密会議をしました。

祇園祭りの騒ぎに乗じてヤツラの本拠地六波羅に攻撃をしかけよう!という計画が出来上がったのです。ですがここにきて多田行綱という裏切り者が出て、この秘密会議のことを平氏にちくっちゃいました。怒った平清盛は、メンバーを全員逮捕!藤原成親は流されたのち殺害され、西光は殺害。俊寛は島流しとなってしまったのです。

この陰謀は後白河が裏でこちょこちょ動き回っていたらしく、後白河の有力な家臣が次々と処分され、後白河と清盛の仲はますます険悪になっていきました。平氏はこの鹿ケ谷の陰謀で反平氏派をやっつけたことによって権力はパワーアップしたのです。


俊寛 一人取り残される

鹿ケ谷の陰謀において南海の孤島 鬼界島に流された俊寛ら3人。鬼界島は人っ子一人いない無人島。都会生活に慣れていた3人は自分達で魚を捕ったり海草を採ったりして暮らしていました。住む家もなく、自分達で丸太を組み植物の葉っぱで屋根を作ったりの生活。都が恋しくてなりませんでした。そしてなんてバカな事をしてしまったんだと後悔する日々・・・。

3年後、そろそろヤツラも懲りただろうと清盛が赦免の船を出した。船がやってきて3人は大喜び。喜んで船に乗ろうとしました。ところが!!船員は「お前は赦免の対象に入っていない。ここで残っていろ」と俊寛一人残れと言うのです。俊寛は「そんなはずはない!私はここにいる2人と同じ罪を犯したのだ!私だけが赦されないなんてひどい!お願いだから船に乗せて都へ帰らせてくれ」とお願い。ですが役人は首を縦にふりませんでした。

俊寛は一人だけ取り残され泣きながら叫びました。ですが船は水平線の彼方に。俊寛はそのまま鬼界島で死んでしまうのです。哀しすぎる・・・


おごる平氏 日宋貿易

さらに清盛は中国の宋と貿易を始め(日宋貿易)お金を蓄えることに成功。その上、高倉天皇にお嫁に行かせた徳子が男の子を産んでくれました。この男の子を早速皇太子に。ノリノリの清盛は、こーなってくると後白河が邪魔になってきた。

後白河も平家のあまりの勢力の強大さに焦りを感じており、なにかと平氏をうざったく思っていたのです。そんな空気を察知した清盛が、先に行動を起こすことに。1179年、とうとう清盛はクーデターを起こし、後白河をとっ捕まえ幽閉しちゃったのです。


清盛大ショック!長男重盛死去

清盛にとって大ショックなことが!なんと後継者である長男の重盛が死んでしまったのです。42歳でした。清盛がお茶目なことをやろうとすると「ダメですよ!」と説教してくれた重盛が死んでしまったことにより、平家はちょっとづつおかしくなっていくことに・・・。

1180年 平氏を倒せ!以仁王立ち上がる 

清盛が後白河を拉致・監禁したニュースは瞬く間に広がり、反平氏派や天皇家の人々、また平氏にやっつけられた源氏の生き残りなんかは怒り爆発。後白河の息子である以仁王(もちひとおう)が、「平氏をやっつけろーー!」という命令書を天皇家から全国の源氏&武士に出しちゃったもんだから、この命令書を受け、全国から平氏に不満を持つ人たちがどんどん京都に集結してきました。

ちなみに以仁王が送った命令書のことを令旨(りょうじ)といいます。令旨ってのは、皇太子や皇后が出す命令文書のことです。以仁王は母の出目が良くないため、皇位継承者としては期待されてませんでしたが、高倉天皇の次の継承者として望みを捨てずに頑張っていました。ところが、高倉天皇の子である安徳を平氏が即位させちゃったもんだから、以仁王の「天皇になりたいぜ!」という野望は完全に閉ざされてしまったのです。このことがあり、以仁王は平氏を恨みまくっていたのでした。


計画、アッサリバレちゃいました・・・

源頼政(よりまさ)が中心となり、平氏討伐に向け準備をしましたが、この動きが清盛らにバレてしまったのです。奈良に逃げようとしたところを平氏軍に追いかけられ、宇治平等院で合戦。が、負けてしまい頼政は平等院で自害。
以仁王は矢に当たり死去。以仁王30才でした。

結果、以仁王ら天皇派は負けてしまいましたが、平氏に対する不満はどんどん広がっていくのでした。清盛はというと、命令書を警戒して京都から福原(神戸)へお引越し。京都は攻められたら弱いとこなので、福原に移っていつ攻められても大丈夫なように守りを固めるのでした・・・。

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